エッセイ

大分県詩人協会会報や同人誌に掲載のエッセイ・詩論を紹介します

街角ピアノ                    

          池田 美代子

 公園や駅広場に置かれた街角ピアノの映像が流れる。地域の人や仕事帰りの人、観光客、ピアニストらしい人達が立ちより演奏する。皆さん上手である。

 小学校低学年の頃、自宅にピアノのある友達がいた。子ども心に羨ましく思ったものだ。いつか自分もピアノのある家に住みたい、そんな夢を見たものである。

ところが、夢は不意にやってきた。友人がピアノを譲ってくれたのである。六十歳にしてピアノを習い始めた。半分はボケ防止のつもり。しかし、指が動いてくれない、指がつる、何時間も練習できないなど、六十歳の習い事は並大抵ではなかった。それでも三年ほど頑張ったが、突然ピアノの先生が急逝した。いろんなことが駆け巡り、ピアノの蓋は閉じられたまま今日に至っている。

 

 街角ピアノの映像が流れてくると、子どもの頃の郷愁とともに、ピアノの先生の事が思い出され、私の詩心は揺さぶられる。

大分県詩人協会等の最近の活動状況

(2022.6~2023.7)

 

 新型コロナのパンデミック以来、ただでさえ高齢化に伴ってモティベーションの低下していたわたしたちの協会も、なかなかコロナ以前のエネルギーレベルまで戻ることができない。

 その状態を何とか脱しようと本年2月7日から12日まで「コラボする現代詩展2023」を開催した。県詩協としては10年ぶり2回目の試みとなる。前回は絵画、写真とのコラボだったが、今回は絵画、写真だけでなく、陶芸、オブジェ、インスタレーションとのコラボなど多彩な出展となった。期間中400人を超す来場者からの好評を得た。

加えて今年1015日には「現代詩朗読会」の開催を予定している。これはこれまで「ことばと詩の会」(隔月開催)を主宰していた幸幹男が提案したもので、詩の朗読と音楽のコラボの会である。詩の朗読もリレー朗読や群読なども計画しており、音楽も県詩協のメンバー自身が弾き語りをしたり、種々の楽器の演奏者とのコラボなど多彩である。開催場所も商店街の一角で、待ちゆく人々へ詩をアッピールしたい。現在、幸幹男を中心に準備に余念がない。

 

1.県詩協関係の詩誌

大分県詩人協会会報(163号~166号)

 大分県詩人協会の会報。事務局長工藤和信が編集で、年に3回発行している。本年度の総会は3年ぶりに対面で開催し、議事に先立ち大分県詩人協会賞作品賞に畑本信行、活動賞に林仙月が選出された。166号では授賞者の畑本信行の巻頭言を記載している。

心象(大分市、231号~235号)

 年4回発行の同人誌。最新号は7月1日発行の235号。ご多分に漏れずメンバーの高齢化とともに同人数が減少傾向にあるが、それぞれ珠玉の作品を発表している。

MON(国東市)

長く滝口武士が主宰していた同人誌「門」の後継詩誌。現在は大分県詩人協会副会長の野原美重子が主宰している。現在361号発行に向けて準備中とのこと。

FLYING(大分市70~73号)

 幸幹男の個人誌。不定期刊行だが、毎号実験的な詩を掲載しており、中身の濃い詩誌となっている。

2.県内発行の総合文芸誌

む(MU)(32号)

森下圭、田口みどり、佐藤省象の3人で発行している不定期刊行総合誌。2023年4月発行の32号では田口みどりが気鋭の詩4篇を発表している。主宰の佐藤省象のエッセー「百姓迷人のひとりごと」は彼の父佐藤徠さんから脈絡と続く「百姓文学」「百姓芸術」の強かさをさわやかに感じさせてくれる。

3.県詩協会員の県外詩誌での活動

座(京都市)

 伊藤阿二子(心象同人、県詩協会員)が同人として参加している。

Bragi(ブラギ) 九州小詩人会会報(行橋市)

 池田美代子(県詩協幹事)が同人として参加している。

 (2023年8月記、文責 井手口良一)

 

 

ことばから詩へ 25

                幸 幹男

普通ってどうゆうこと

 詩を書いていてよく言われる言葉が「普通のことばで書いてほしい」「普通の詩が読みたい」など「普通」ということをよく言われる。この普通ということばは日常的に頻繫に使われている 。それこそ「普通のひと」「普通の食べ物」「普通の服装」「普通の生活」から「普通の人生」「普通の生き方」までとにかく「普通

「ふつう」である。

私の小学校時代の通知表は「たいへん良い」「良い」「ふつう」「悪い」「たいへん悪い」の5段階であった。中学も5段階だったが数字で表していた。考えるまでもなく「ふつう」は「3」である。この時の「ふつう」「3」は多数派であったと考えられることだ。その多数であるがゆえに「普通」がなぜか絶対的な力を持っているように感じてしまう。とにかく「普通」以外はすべて特別なのである。「普通」でないことがおかしいということである。

 そのことを踏まえて「詩」のことを考えてみる。詩を書く行為、詩について考える行為は普通のことであるだろうか。いやそもそも「普通のことば」って何を指すのだろうか。わたしにはそこがどうもわからない。穿った考え方をすれば、「空」と書けば誰もが思い浮かべるであろう「空」であってほしいし、つまりは最大公約数的なイメージで表現してほしいということだろう。そうすれば書いている内容がそれなりにつかめるだろうし、より作者に対して、その詩について愛着が湧くかもしれないということだろう。そしてもしかしたら私にも書けるかもしれないと思わせるものがあるかもしれない。そこに至ればすでに「普通」ではなくなったといえるが。

 また「普通に書く」「普通のことば」ということには、具体的であるか、具体的なイメージを呼び起こせるかどうかであり、それには意味が深く関係してくる。つまり「辞書的な」「教科書的な」意味があるかどうか。つきつめていけばいまの時代に生きていく中で感情に訴えかけるもの、あるいは郷愁を呼び起こすもの、不特定多数に訴えるもので意味がわかりやすいもの。といったところだろうか。

 

 それでもわたしは「普通」がわからない。わかりやすいということがわからない。わからないがわたしはたぶん「普通」でないことばで書きつづけるだろう。


リズムのある言葉    

畑本 信行

 

昔に流行したギャグで、「飛んでも8分、歩いて10分」というのがあります。今でも言っている人がいるようで、息が長く続いています。これは、相手の言葉を否定、もしくはそれに反論する意味で使われます。

元々は、昭和25年の獅子文六の小説『自由学校』の中に出てくる、英語混じりの表現のひとつ。「とんでも、ハップン。いけません。

という文言があります。

「とんでもない」、元は「途(と)でもない」。「途」とは道、道筋のこと。つまり、「道理に合わない」「道から外れている」の意味になります。「とでもない」に撥音(はつおん)の「ん」がクッションとして加えられて「とんでもない

と変化しました。それに、その英語の「never happen」の「happen」が合成されて「とんでもハップン」になりました。

 この言葉の息の長さの理由は、音楽性。「タンタカ タッタン」というリズムと、「とんでも」の、硬いt音と撥音のn音、次に「ハップン」の、息の強いh音と破裂のp音の鮮やかさです。さらに日本人の得意とする言葉遊び。「とんでも」「飛んでも」、「ハップン」→「8分」、それが「飛んでも8分、歩いて10分」になったわけです。「タンタカ

 タッタン タカタカ タッタン」の4分の4拍子の2小節は、まさに詩の言葉です。

 この、リズムを遊ぶ詩のいちばんの例は、谷川俊太郎の『かっぱ』。(かっぱ/かっぱらった/かっぱ/らっぱ/かっぱらった)という、促音「っ」と硬い子音、そして「タッカ

 タッカ」というリズムが肝です。内容も愉快なものになっていて、読んでいるととても楽しくなります。

 読者が詩に入ってくるための要素は、リズムと言葉遊び。その上で世界を想像できる内容も要求されています。リズムと内容の両立が今の私にできるかと問われれば、至難だと答えるでしょう。軽妙にできているようで、実は高等なものであると改めて感じます。この「飛んでも8分、歩いて10分」みたいな技法を習得できれば、言葉遊びに留まらず、詩作でも読者を楽しめるだろう、と羨望を抱かずにはいられません。